真夜中の自宅。
熱帯夜特有の粘ついた息苦しさを感じながら、俺はリビングへ向かう真っ暗な廊下を歩いていた。
何故だろう? じっとりと纏わりつく空気が気持ち悪いぐらいなのに、足元から底冷えするほど寒さを感じるのは。
目をあげると、リビングから温かな光が漏れていた。

(あそこへいこう。リビングなら・・・・・・)

きっと、香藤がいる。あいつのそばなら、きっと、こんな氷塊を飲み込んだような悪寒も霧散するはずだ。
かじかむ手を伸べて、俺はリビングへと続く扉をあけた。





「さよなら、岩城さん」
「・・・・・・・・・・・・」

香藤は、それまで座っていた椅子から立ち上がると、目も合わせずそう言った。

(な・・・・・・、に・・・・・・)

思考がついていかない。彼は、何を言いたいんだ? 何を言って・・・・・・。
呆然と香藤を見詰めていると、彼はジーンズのヒップポケットから愛用の皮財布を取り出し、俺がプレゼントしたキーホルダーからパチンとこの家の鍵を外した。

「さよなら」
「・・・・・・・・・・・・」

テーブルの上に置かれた果物皿と鍵がぶつかって、カチンと澄んだ音を立てた。
鈍く光る果物ナイフ。真っ赤な林檎。早緑色のマスカットを見るともなしに見ながら、まるで、それらに話しかけるように香藤はささやいて、背を向けた。瞬間・・・・・・。

(あ、まて! まさか・・・・・・っ!?)

白磁のごとく白い、力強さを秘めた手が、ナイフを手に取った。
切っ先が向かう先にあるのは、香藤の背中・・・・・・っ!

(うわっ、莫迦、やめろ・・・・・・!!)

ずしんとナイフを握る手に荷重がかかる。ブツブツと分厚いゴムを切断するような、恐ろしい感触ののち、ナイフは柄まですぅっと香藤の体内に飲み込まれ、カツンとなにか固いものに当たって、止まった。

(・・・・・・・・・香藤っ!)

香藤は、驚いたようにこちらを振り返ると、ぐらっと体勢を崩してその場にうずくまった。真っ白なシャツに広がった真紅の血。青ざめた唇に、いままで見たこともない、悪魔のように冷たい微笑を浮かべて、言った。

「無駄だ、よ・・・・・・・。オレの、心、は、自由だ・・・・・・」

(ばっ、莫迦っ、恰好つけてる場合か・・・・・・!!)

「―――それでも、お前は俺のものだ、永久に」

冷たい声。耳を塞ぎたくなるような哄笑が響きわたる中、俺は魂の奥底まで震えあがり、叫んだ。

(別れるなら別れるでいい、他に何人好きな人がいようとかまわない、もう一度、振り向いてもらえるよう努力するまでだ! だから、だから、香藤・・・・・・っ)

むせ返るような血の匂い。俺が愛した、なにより愛した、香藤の生命の輝きに満ちた瞳から急速に生気が失われ、人形のように虚ろな、がらんとした空洞に変わってゆく・・・・・・。

(香藤、死ぬなっっ・・・・・・・・!)